「自分をよく見せるために周囲に引き立て役を置こうとする人間の行動に似ているのかもしれないな」
引き立て役。
どこかで聞いた言葉。
私は里奈の引き立て役。
夜風が美鶴の項を撫でる。悪寒が走る。
今は、そんな事を考えている場合じゃない。
思わず小さく頭を横に振った。クラクラして、ふらつきそうになった。なんとか踏ん張って耐えた。
「どうした?」
怪訝そうに聡が声を掛ける。
「別に」
そう答える美鶴の顔色が心なしか悪いような気がする。
暗闇で見難いからかな?
聡は小さく首を傾げたが、そのまま再び涼木魁流へと視線を戻してしまった。
魁流は、柔らかな髪を乱したまま、地面を凝視している。
鈴が、薄情? 嘘だ。
そんな魁流の耳に、優しく懐かしい声が甦る。
「私みたいな陰鬱な人間が世の中に適応していく術を身につけるには絶好の場所だって」
鈴の母親は、そう言って娘に唐渓への受験を勧めていた。魁流はそう教えられた。
母親は、見抜いていたのか? 鈴の腹の底を。鈴の、陰なる鬱の部分を。
自分は誰よりも正しいと傲慢に自負する鈴。善人として君臨する事ができないと判断した場所は避け、嫌なものからは目を背けて自分が心地良いと感じる世界にのみ引き篭もろうとする娘の行動を、母親は善くは思わなかった。
「見ざる聞かざるを通せば辛い思いはしないで済むだなんて、世の中はそんなに甘くはないの。見たいものだけを見て、見たくないものからは目を背けるだなんて、まるで好きなものだけを食べようとする子供みたい。我侭にもほどがあるわ。世の中というものがどれほど厳しい世界なのか、ちゃんとその目で見てみなさい」
自分の好きなものだけを享受しようとする娘に現実を見せようとする母。鈴は不貞腐れ、反発した。
なによ、私は何も悪い事はしていないのに、どうして嫌がる事をさせようとするワケ? いつでも正しいのは私なのに、まるで私の方が間違っているかのような言い方をするなんて、気に入らない。
見たくないものから目を背けている? そんな事はないわ。私はちゃんと、お父さんの職場の見学会にも参加している。理不尽に扱われている動物たちの現状に、ちゃんと目を向けているわ。ちゃんと現実を見ているじゃない。
父親の職場を見学するのは、動物たちの現状を知って現実を考えるためなのか? それとも、現状に憤りを感じる自分に、満足を感じるためなのか?
いいわ、そんなに言うなら、唐渓へ通ってあげる。
唐渓へ通い、だが馴染む事はせずに周囲と距離を置いた。
見なさいよ。私がどれだけ理不尽な立場に置かれているかを。全部あなたのせいよ、お母さん。あなたが唐渓への入学を希望したから私はこうなったのよ。責任は全部あなたにあるわ。だって私は、唐渓へ通いたいだなんて一言も言ってはいないもの。
私は悪くはないわ。悪いのは全部お母さんよ。
「じゃあ、なんで唐渓に?」
「母の事は、好きだったから」
天国で母親は、どんな顔でその言葉を聞いたのだろうか?
あなたは最低の母親よ。娘をイジメの只中へ放り込む、ロクでなしの母親よ。
私は違うわ。私は亡くなった母親の意向を受け止め、健気に通う孝行娘よ。
虐められて蔑まされて、一人ぼっちになる私を見ればいいわ。
ざまぁみろ。
魁流は知らない。ここにいる誰も知らない。なぜ母親が娘を唐渓へ入れたがっていたのか、なぜ鈴がそれを忠実に守ったのか、今となっては何もわからない。
「織笠鈴は、絶対に自分を責めたりはしない」
まるで歌声のように滑らかで、場に不似合いなほど穏やかな慎二の声。だが、どことなく粘り気をも含ませている。滑らかなのに、どこかネバつく。
「自分を責めろと言うつもりはないさ。自虐なんて、くだらない感情だと思っている。だが、理不尽な扱いを受ける動物の命を大切に思うのなら、自らの命を絶つような事なんてしない。絶対に」
コートの襟が、少しだけ揺れた。
「織笠鈴は、他人は責めても自分は責めない。なぜならば、彼女にとって、正しいのはいつでも自分の方だから」
慎二は、再び魁流を見下ろす。
「俺は、織笠鈴には腹が立つんだ。愛華の発言にもほとほと呆れるが、織笠鈴の狡猾さにも怒りが沸いた。彼女は、唐渓の他の生徒と何の違いも無い」
責められて、劣勢に追い込まれたからといって自らの命を絶つなんて。自分の意見が通らないからといって不貞腐れて依怙地になった子供のようだ。
「なんて卑怯で狡いんだ。これだから女は嫌いだ」
女は嫌いだ、と言った時、美鶴はチラリと慎二に睨まれたような気がした。
織笠鈴は、本当にそういう人間だったのだろうか?
死んでしまった人間を悪く考えるのには抵抗を感じる。だが―――
織笠鈴は、そもそも自殺などをする必要があったのだろうか? 激しい虐めに耐え抜いた挙句に身も心もボロボロになり、周囲へ救いを求めても応じてはもらえず、などといった印象は、涼木魁流や霞流慎二の話からは感じられない。彼女の立場は、そういった理不尽な待遇に悩む人間たちとは、同じとは言えない。
彼女の自殺という行動は、果たして本当に正しいのだろうか? 正当化されるべき行動なのだろうか?
「涼木、お前も織笠と同じだ。狡くて卑怯な小心者だ。だからお前は中退して逃げた。自分を正当化してくれる織笠の影を追いかけて、自分を守ってはくれない唐渓から逃げたんだ。だが、織笠はどうだったかな? 案外、お前などは遊びだったのかもしれんぞ」
「遊び?」
「自分の一言一言に相槌を打つお前など、ただ都合が良かっただけなのかもしれん。自分を正当化してくれるだけの存在だったのかも」
「そんな、ことは」
「そうか? 自分の発言にいちいち反応するお前の態度を見て、愉しんでいただけなのかもしれないぞ。唐渓という存在を利用して、正義に成り上がった自分を見せびらかしたいだけだったのかもしれない」
「そんな事はない。そもそも、鈴が唐渓を利用するだなんて、そんな事、鈴は考えてもいなかったはずだ。だって彼女は、唐渓など辞めた方がいいのかもしれないって言ってたくらいなんだぞ」
「ほう、じゃあ何で辞めなかったんだ?」
「それは」
一瞬躊躇する。
「それは、俺が引き止めたから」
鈴と離れたくなかったから。
「だったら、やっぱりお前は織笠にとって、都合の良い存在だったんだな」
「なぜ?」
「言っただろう? 唐渓は自分を善人と見せるには恰好の場所だ。だが、織笠の不遇を見て、辞めればいいではないか、といったような進言が出てくる事だってあったはずだ。彼女の家庭は裕福ではない。辞めれば父親も楽になると言われれば、鈴は辞めざるを得ない状況に追い込まれる。だが、お前のように引き止めてくれる存在が居れば、辞める必要は無い。彼女は何でも責任を他人に押し付ける。唐渓に入学したのは母親のせい。辞めないのは、涼木、お前のせいだ」
退学という言葉をチラつかせる鈴。必死に引き止める魁流。
「最低だ。吐き気がする。本当に辛い思いをしながら必死に生きている人間をも馬鹿にしている。世の中すべてを馬鹿にしている」
「嘘だ」
「お前は彼女にとって、自分を正当化してくれるだけの存在だったんだよ」
「もうやめてよっ!」
ツバサが右手で空を切る。
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